仙台遷都など阿呆なことを考えてる人がおるそうやけど、(中略)東北は熊襲の産地。文化的程度も極めて低い。
— サントリー社長 佐治敬三ー
JNN報道特集 1988年2月28日
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
これは1988年2月、当時大阪商工会議所会頭であった佐治敬三氏(当時サントリー社長)による舌禍事件であり、東京からの首都機能移転問題について発言した内容の一部で東北熊襲発言と言われています。
そもそも朝廷に従わなかった勢力のうち東北にあったのは蝦夷であって熊襲ではありません。熊襲は南九州の勢力ですからこの時点ですでに大きな間違いですね。しかも熊襲の産地は文化程度も極めて低いとは…。
洞窟(熊襲穴)の中まで動画でご案内
最初から話が大幅にそれてしまいました。よろしかったら動画をご覧ください。
熊襲穴(くまそのあな)とは
かつて朝廷に反抗していた南九州の勢力、熊襲一族の頭領が住んでいたとされる洞窟が天降川沿いの山の斜面にあります。
この洞窟が熊襲穴(まはた熊襲の穴)と呼ばれ、駐車場や散策路と共に整備されています。
私の妻はこの付近で生まれ育ったのですが、悪さをすると「熊襲穴に入れるぞ」と言われ、良き躾になったとか。
※ 天降川・・天孫降臨説話において天孫天降の地とされる霧島山を水源とすることから天降川と呼ばれている。(三国名勝図会)
駐車場から熊襲穴まで210メートル
熊襲穴は、隼人から天降川に沿って国道223号を北上、妙見温泉の妙見石原荘手前付近に駐車場の入り口があります。
国道のすぐそばにあるのは駐車場であって、熊襲穴はここから階段などを210メートル登らなければいけません。
その階段を含む熊襲の穴への道は整備されてはいるものの、特に最後の数十メートルは傾斜もきつく、運動不足の身にはかなりこたえました。
洞穴の内部は真っ暗なのですが、入り口に照明の電源スイッチがあります。
洞窟の入り口は狭く、大きな岩の下を体をかがめて潜るように入るのですが、中は意外に広く案内板の説明によると百畳敷くらいとのこと。
ここは第一洞穴で、更に第二洞穴につながっているものの現在は入り口が崩れて中へは入れません。
第二洞穴は約三百畳敷位の広さがあると言われています。
冒頭に述べた東北の蝦夷と共に熊襲は朝廷に服従していない勢力で、ヤマトタケルが父の命令に従い熊襲のリーダーであった兄弟を討ったのですが、その場所がこの熊襲の穴の付近であったらしいです(あくまで伝説ですが)。
熊襲の兄弟とヤマトタケルについて
日本書紀と古事記での描かれ方
古事記の中でもヤマトタケルは最もよく知られている登場人物と言われているのですが、その描かれ方は日本書紀と古事記とでは大きく異なります。
●日本書紀・・国家の歴史を描いており、ヤマトタケルは景行天皇に忠実な皇子
●古事記・・宮廷の歴史を描こうとしており、ヤマトタケルは景行天皇から疎まれ王権の中心から疎外され辺境に絶えず追いやられ続ける悲劇的な英雄
そのため表記でも「熊襲」は古事記では「熊曾」であるとか、日本書紀では一人の人物であるのに対して古事記では熊襲は兄弟である(同名:クマソタケル)などの違いがあります。
古事記についてはわずかですが勉強したこともあります。しかしここで日本書紀や古事記について述べるわけではありません(さほど知識もない)ので、以後両方の解釈が入り混じった形で記述するかもしれませんがご了承ください。
熊曾建の討伐
第12代目の景行天皇は子だくさん(子供が80人)でしたが、その第3皇子の小碓命(後のヤマトタケル)はその勇猛さが天皇の存在を脅かすような脅威として意識され、父の景行天皇から疎まれ続けることになったのです。
そして天皇自身から遠ざける(口実ですね)ために熊襲の頭領の討伐を言い渡されるのです。
熊襲兄弟がいる館はその周りを軍隊が三重に取り囲んでおり、小碓命が到着した時はちょうど新築の宴会の準備をしている所でした。そこで小碓命は酌婦に成りすまします。
小碓命は兄弟の目に留まることとなり、兄弟に近づいた小碓命は二人を剣で殺すのです。この時小碓命の勇ましさを讃えた兄弟からタケルの名前を献上され、ヤマトタケルと名前を名乗ることになりました。
水場(天降川)までは300m降りる
館の周りを軍隊が三重に囲めるようなスペースなど断崖に近い地形のところにあるはずもなく、国道に沿って流れる天降川からは急な坂道を300メートルくらい登らなければいけないのです。
日常の生活さえ不便な場所であり、いくら伝説とはいえ古事記の記載からとてもここが熊襲兄弟の住んでいたところとは思えませんね。一族の集会所だったということにでもしておきましょうか。
自然がなせる造形をうまく神話に関連付けたものと思いますが、まあロマンを感じる物語ではありませんか。
交通アクセス
- 九州自動車道・溝辺鹿児島空港ICより約20分
- JR日豊本線・隼人駅より約15分
- 東九州自動車道・隼人西ICより約20分
参考:放送大学印刷教材「古事記と万葉集」
(おわり)